遥かなるオレゴンコースト7



その夜、グランドセントラル駅にあるオイスターバーでアレックスと李紗たちは食事を することになっていた。
李紗と寛子はアレックスとの待ち合わせの時間よりも二十分ほど 早めに着いた。
二人は美紀とここで待ち合わせをすることになっていたからだ。
「美紀ちゃん、ここよ」
寛子が駅の人ごみから美紀を見つけて声を上げた。
「お母さん、お姉ちゃん、もう、とっても疲れちゃったわ。私もテニスの試合を見にいけ ば良かった」
と、美紀は疲れ果て顔で、おまけにお腹も空いているのでその場に座り込み ながら答えた。
「大変だったのね」
寛子はアレックスと李紗のことに心を奪われて、すっかり美紀のこと を忘れてしまっていたことを悔いた。
そして、この美紀のこの一言でアメリカに滞在する 日もあと二日しかないことに気付いた。
「そうよ。みんなさっさとテニスに行ってしまうから、一人で買い物してきたわよ。とっ ても大変だったのよ」
「ほんとうにごめんね。美紀ちゃんを一人にして悪かったわ。明日はお手伝いするからね」
寛子はそう言いながら美紀の手を握った。
「美紀ちゃん、でも何でも一人でできたら、NY(ニューヨーク)でこれから生活するの に困らないから、良かったじゃないの?初めに手伝ってもらうとそれからが大変よ」
と李 紗が何気なく言った。
「お姉ちゃんの言葉は嫌味があって、優しくない」
「そんなことないわよ。美紀が一人でやれて凄いって言っているのよ」
「もう、嫌だ。お姉ちゃん」
美紀はこんな気持ちで李紗の恋人と食事をすることを嫌がった。
そして寛子に
「先にホテルに戻る。食事はしたくない」
と言うと、美紀はプイと振り向いてスタスタと 歩いていった。
寛子は慌てて美紀を追いかけたが、美紀の怒ったうしろ姿を見送る事にな った。
「もう、美紀だったら勝手なんだから」
「李紗ちゃん、言い過ぎよ。美紀ちゃんだって一人で大変だったのよ」
「私だって、一人で留学生活を始めたのよ。たった一人ですべてをやってきたのよ。美紀 は甘えているよ」
「でも、李紗ちゃん、美紀ちゃんはお母さんや李紗ちゃんが一緒に来てくれたことが心強 く思えるのよ。だから、私たちがNY(ニューヨーク)にいるうちは、あてにされても仕方 ない事よ。美紀だって一人になったら、李紗ちゃんのようにやるわよ」
「だから、私も大変だったねと、美紀に言ったわよ。もう、美紀のことはいいわ。アレッ クスが来ちゃうわ」
二人がオイスターバーに慌てて入ると、すでにアレックスが待っていた。
「アレックス」
と呼ぶと、李紗の頬がぽっとピンク色に染まり瞳もキラキラと輝き、さっ きまでの刺々しい顔がスーツと消えうせてしまった。
そんな李紗を見ながら寛子はただ、 唖然とするだけで輝きを放つ娘の後ろに隠れながら、アレックスに挨拶をした。
アレックスの爽やかな香りがテーブルを包み、寛子は三時間前までテニスコートで躍動 感溢れる試合をしていた青年と食事ができることが信じられなかった。
李紗が通訳しながら、寛子はアレックスと言葉を交わした。
今まで見たことも無い李紗の 女らしい仕草やアレックスに甘える可愛らしさに、寛子は遠い昔にしまい込んでしまった 恋心が胸に広がり、まるでアレックスに横恋慕をしているような淋しさが襲って来た。
そ して、寛子は李紗が年頃になったことをしっかりと受け止めた。
「とても、愉しかったわ。アレックスありがとう。日本にもテニスのトーナメントにきて くださいね。それではこれで、私は先にホテルに帰ります」
「僕の試合を見てくださってありがとうございます。今年はアメリカのトーナメントで頑 張ります。そして来年の全豪オープン、全仏、ウィンブルドン、USオープンの四大大会の 本選で結果を出したいと思っています。もちろん、ジャパンオープンに行けるよう頑張り ます。プロの道は厳しいですが、良い結果を出す事で道が開けていきます。今日は李紗の お母さんと、お話できてよかったです」
とアレックスは寛子に右手を差し出して握手を交 わした。
それから三人はオイスターバーの店を出ると、李紗が寛子に
「お母さん、ホテルまで送って行くわ」
と言って寛子の横に立った。 「ありがとう。ちょっと一人で帰るには不安だったのよ」
「セントラルステイションのすぐ近くのホテルですが、お母さん一人ではあぶないですよ」
とアレックスも寛子を気遣った。
そしてルーズベルトホテルの前で、寛子は満足して二人と別れた。
「アレックス、今日は試合で疲れているのにお食事付き合ってくれてありがとう」
「僕のほうこそ、李紗やお母さんが試合を応援してくれてうれしかったよ。李紗」
と言う とアレックスはそっと李紗の手を取った。
そして確かめるようにしっかりと李紗の細い指 をアレックスの大きな手が包んだ。
李紗はアレックスに久しぶりに逢えた嬉しさが溢れ出 しそうになるくらい身体全体が熱っていた。
そんな李紗をアレックスは愛しいと思った。
二人はもっぱらメールのやり取りで愛を育んできた。
遠距離恋愛のため思うように逢う 事ができないが、お互いに一番大切な人と心に誓って過ごしてきた。
そしてこの想いが二 人だけになって、言葉にならないくらいキューンと李紗のハートを締め付けた。
メールな んかじゃ満たされない淋しさが今まさにアレックスと並んで歩いているだけで幸せいっぱ いになった。
このままアレックスとの恋に溺れてしまいたいそして、この時間(とき)が 永遠に止まって欲しいと李紗は心から願った。
それほどまでにアレックスに夢中になって いる李紗自身をこの上も無く愛しく、いじらしく思えた。
スリーブロックほどフィフスアベニューを二人は雑踏も雑音も感じることなく見つめ合 いながら歩いた。
三ヶ月間前まで学生だった李紗が社会人となって活き活きと輝いて見え て、アレックスは李紗を眩しく感じていた。
李紗もプロとしてトレーニングを積んできた アレックスが逞しくなってセンターコートでアガシと戦った姿に魅せられ、まるで夢のよ うな想いになっていた。
燃え上がる恋の炎が二人を包んでいった。
そして信号待ちの間に アレックスが李紗を抱き寄せた。
もう、気持ちを抑えることもなくナチュラルに李紗は 「ずっとこのままでいたいわ。アレックス」
「李紗、僕もだよ。愛しているよ」
「愛している」
この瞬間、二人に大きな津波が押し寄せ一機に激情の海に投げ出された。
もう、二人とも そのまま熱い抱擁を交わした。
次の信号が変わり人の波が静かに止まった。
アレックスが照れながら、 「李紗、この近くでお茶でもしよう」
「そうね。カフェロカは、どうかしら?」
「僕も行こうと思ったところだよ」
アレックスは李紗をエスコートして交差点を渡って、そしてなかなか日が暮れない九月の セントラルパークを横切った。
すると直ぐ右手にカフェロカが見えた。二人は店に入ると、 ウェートレスが窓際の奥の席に案内してくれた。
「李紗、僕は明日からカリフォルニアのサンノゼに行くことにしたんだ」
とアレックスが 李紗に気を遣いながら話した。
「嘘でしょう。明日もNY(ニューヨーク)にいるって言ったのに」
李紗はアレックスがプロテニスプレーヤーになったら逢うこともなかなかできなくなる事 も、逢えても時間が思うように取れなくなる事もシーズン中は仕方ないと覚悟をしていた が、いざ現実になると耐えられない厳しさを目の当りにした。
「ごめんね。李紗」
「明日も一緒にいられると思っていたのに急に決まったのね。明日は何時の便なの?」
「十一時の便だよ。どうしても大学合同練習に行きたいんだ。翌週にはサンノゼの大会が あるから、サンノゼのフレッシュマンの試合には勝ちたいんだ」
「そうなのアレックス、分かったわ。それじゃ、私、週末にサンノゼに応援に行く」
「本当に来てくれるの?仕事は大丈夫?」
「たぶん大丈夫よ。だって、行きたいのよ。そして応援したいのよ」
プロの道に選んだアレックスが李紗の誇りだった。
アレックスが全米学生チャンピオンに なった時から李紗はずっと信じていた必ずプロになって活躍してくれると......。