HITOMIKUYOU(人身御供2) 

人身御供2 朝の遽しい時間に追われるように睦子は洗濯や掃除にと身体を動かしていると、忠司のことをいつの間にか忘れていった。
忠司は家から駅までの坂道をワイシャツに汗を滲ませないようにゆっくりと歩く、睦子が自転車で行く事を薦めても頑なに忠司はこの上り坂を駅まで歩いた。
十分ほど歩くと飛田給(とびたきゅう)駅に着き、会社のある新宿に京王線で通っていた。
この日はいつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗って会社に着いたそして何も変わることなく時間が過ぎていった。
忠司は開き直ったかのように落ち着いていたが、さすがに発表の時間が刻々と迫って来ると忠司の心はパニックになっていった。
いつもと違う忠司の顔を誰にも気づかれたくなかったそれは男の意地のようなものだった。
忠司は精一杯必死になって平静さを装った。
「もう、全ては終わった」
と、自分に言い聞かせた昨夜のことを思い出した。

駅から家へ向かう坂道は多摩川にぶつかっていた。
忠司は家の前を通り過ごして、暗がりの多摩川まで歩いた。
そしてしばらくの土手に佇んで、川面に映るほの暗い橋の灯りにやり切れぬ思いを映し出した。
川の流れはゆったりとして、その淡い光がブラックホールに引きずり込まれるように深い沈黙の世界を創り、文月の生温かな風が微かに身の丈ほどのあわだち草を揺らした。

「今まで何のために働いてきたのだ俺は」
忠司は吐き捨てるように心のモヤモヤを声にした。
そしてどうにもなら無い憤りを小石に詰めて、ほの暗い川に荒々しく投げつけた。
「ドボン、ドボン」
と虚しい音となって忠司の憤りが川底へと落ちていった。
そこは緩やかにカーブをした淵で深い川底に忠司の心の闇を葬り去ろうとした。
忠司が神戸で犯した過ちを会社に密告した白井 享を恨んだことも、白井の必要以上に粘着した復讐心からの嫌がらせも、すべてこの闇の中に捨てようとした。
この深く暗い淵から、忠司があの夜一緒に過ごした小夜子の顔と白井の顔が鮮やかに浮かび上がってきた。
それは忠司が唯一守りたかったマインドの代償そのものだった。
橋を渡る車のヘットライトが欄干から漏れ格子柄に水面を一瞬に変えた。
小夜子と白井の二人の顔が歪んで切れ切れになった。
その瞬間、忠司の身体全体を無数の蝙蝠が襲いかかったような鋭い痛みとギュウとすべての血を吸い取られたようなフォビアに、おもわず忠司は瞳を閉じ自ら暗黒の世界に身体を預けた。
そうしなければ、闇の中を永遠に彷徨い続ける羊になりかねないように思えた。
これほどリアルにあの二人の顔が忠司の脳裏を占領したのは一年ぶりの事だ。
それはほんの数秒間だったが忠司は耐えられなくなって、思わずグッと瞳を見開いた。
そして、忠司の身体に吸い付いている蝙蝠を両手でおもいきり追い払い、大声を張り上げた。
「ウォー、ウォー」
と野獣が叫ぶように吠えた。
そして、
「もう、全ては終わった」
と言いながら、忠司は二、三歩後ずさりをして小走りに土手から降りた。

それはあの神戸の震災があった朝とまったく同じようにうろたえながらも小夜子を一人残して部屋から小走りで飛び出した歩き方だ。
忠司は激しい揺れの後に血相を変えて自宅に急いだ。
まるで何かに取り付かれたように忠司は、瓦礫と地割れとパニックになった人の中を必死になって歩いた。
そして、会社の近くにある単身ようのマンションに戻った。
ドアが曲がり開かなくなっていたが通路側の窓ガラスが割れて部屋の様子が窺えた。
空爆を受けたような廃墟となった街並みは忠司を何もかも失ってしまってただ呆然と立ちすくむ屍と化した。
神戸支店の職員たちの安否を確認した翌日、名簿に小夜子の名前がなかった。
そして忠司は小夜子がアパートの下敷きになって死んだことを同僚の白井から聞いた。
信じられない恐ろしさに体が竦み、生きていることが奇跡的だったことを確認した忠司だった。
そして生き残る事が出来たあの時の自己中心的な行動が忠司を果てしなく続く暗黒の世界へと落とし込めた。
忠司は小夜子に対して申し訳ない思いが十字架のように圧し掛かってきたが
「小夜子が死んだ事は不可抗力であって誰も地震のあと小夜子のアパートが崩壊するとは思わなかった決して小夜子を見捨てわけでない」
と言い聞かせて納得しようとした。
そうすることで、この暗闇から逃れようと必死で忠司自身の良心と戦い決着をつけようと一年が過ぎ、二年が過ぎていった。
時間(とき)が忠司を救ったかのように見えた。

「只今、俺だ」
「お帰りなさい。電話がかかってくると思って待っていたのよ」
「静岡だ。部長になれた」
「どうして、電話くれなかったのよ。部長になれてよかったわね。ほんとうに良かった」
「あぁ、今回は駄目だと思っていたよ」
「ワインでも飲みましょう」
睦子は忠司の出世を心から祝福した。
これが長年連れ添った夫婦の姿のように映って見えた。
睦子にとっても一年が過ぎ、二年が過ぎて、時間(とき)が憎しみを和らげて行ったように見えた。

今日が大事な日であることも、日常に紛れて睦子はいつもと変わりなく過ごした忠司と同じように、そして時計が九時三十分になり、睦子は家から自転車で十五分ほどの所にある植物園へとパートに出かけた。
そこでは、ガーデニング教室や季節の花を扱ったフラワーアレンジメントの教室があり、植物園を訪れた人が手軽に楽しめるようになっている。
このガーデニングとフラワーアレンジメントの教室は調布市の広報で募集したクラスもあり、この植物園のカルチャースクールの生徒と合わせるとかなりの人数になる。
睦子はそこの受け付けの仕事をこの植物園が新しくオープンした時からずっと勤めていた。

「おはようございます」
睦子はいつもと変わりなく、園長の大河に挨拶をした。
いかにも植物園の園長といった浅黒い顔にごつごつした大きな手の大河だが、なかなかのやり手で、この園を開園以来うまく軌道に乗せて入場者数を下げる事がなかった。
もちろん、睦子がここでパートを続けられるのも大河の手腕とすぐ近くにある大手不動産会社の高級住宅地と高層マンションのミセスとシニアのおじ様たちが入れ替わり押し寄せてくるお陰だった。
「おはようございます。今週は土曜と日曜出勤できますね。片桐さん」
と大河は睦子に念を押した。
「はい、大丈夫です。増田さんはしばらくお休みになるのですか?」
睦子は数日前からこの話がでていたので覚悟はできていたが、この暑い夏を乗り切れるか自信がなかった。
「それが片桐さん、増田さんから昨日電話がありまして京都に住んでいるお母様の様態がおもわしくなくて、京都にしばらく行かれるそうです」
「増田さん、大変ですね。当分お休みになるのでしょうね」
「増田さんもお母様がどうなるかわからないので、はっきりした期間は言っていませんでした」
大河は困った顔をしたが、慌てる様子もなく成り行きに任せるしかないと言う感じで、睦子に話した。
「京都まで行かれるのですね。遠いからお母様の介護も大変だわ」
睦子は、増田のことが心配で堪らなくなった。
そんな睦子に大河は駄目押しをするように
「増田さんの出勤日を片桐さんにお願いすることもあるので宜しく頼みます」
「はい、分かりました」
と睦子は応えた。

増田朋子と睦子は一緒に仕事をする事は無かったが、季節ごとにある大きな講習会の時は二人で仕事をしていた。
どう言う訳か初めて逢った時から睦子は朋子と気が合って、年齢もひとつしか違わなかったこともあって時々、電話で長話ができる間柄だ。
朋子はどちらかと言うと睦子と比べておっとりとしているが、京都の女性が持っている芯の強さがあり、歳上の睦子のほうが華奢なところがあった。

睦子は、四時過ぎに仕事を終えて家に戻ってきた。
すぐに電話のところに行き留守電があることに気づいた。
再生ボタンに触れながら睦子はハッキリトと自分の鼓動を感じていた。
「お母さん、昨日はバイト仲間と海に行ったのでそのまま仕事場に行きます。心配かけてごめん!今日の晩ご飯食べるから」
「なんだ、浩ちゃん」
睦子は次男の浩樹の声に冷静さを取り戻した。
そして忠司からの電話を待った。
ワイングラスに注がれたフルーティーな赤ワインは睦子が選んだものだった。
忠司は黙って飲んだ。
自分でも部長になれないと諦めていただけに胸が詰り、睦子が用意してくれたワインが妙に甘く感じた。