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HITOMIKUYOU(人身御供1) 七月一日は人事異動の発表の日だった。 今年の梅雨は空梅雨とテレビの天気予報が、ここ数日報じているようにこの日も雲ひとつない青空と眩い太陽が朝早くから地上に初夏の清々しさをもたらしていた。 片桐 忠司は大手損害保険会社に勤めて二十八年になるサラリーマンだ。 彼には妻と二人の息子がいる。 そして東京の調布市に五年前に家を購入して幸せな家庭がある。 息子たちも一流大学に通い、妻の睦子は、二年前から週三日のパートに出て其れなりに家計を支えている。 傍から見てもこの家族は幸せそのものと思われていた。 そう思われることが忠司の満足感であり仕事のパワーの源でもあった。 忠司は会社に入社して以来、同期の中でもかなり順調に係長、課長と昇進していた。 何事も思い通りの人生を歩んでいた忠司だったが、今回の人事は忠司にとって初めて味わうスリリングなものとなった。 部長になる年次としては、本来なら昨年だったのだが、神戸支店勤務の三年目の冬に阪神淡路大震災に遭い、東京本社に戻ることが二年も遅れてしまい今まで順調だった昇進が危うくなってしまった。 そして、残り一席しかない部長の席を手にする事ができるかどうかの瀬戸際に立たされることとなった。 彼にとってこの機会を逃したら定年までの十年あまりを課長という立場のままで過ごす事になるからだ。 心の中では「俺が部長になる」と思っていても忠司は、妻の睦子にも今回の人事について一切話さなかった。 「おい、行ってくる。とにかく電話をするから」 忠司のイライラした気持を察した睦子は 「はい、分かりました。行ってらっしゃい」 と言って送りだすと、ドアーのロックを確りとかけた。 睦子は忠司がこのところ夜中に起きて、なかなか眠れない事もわかっていたがそっと見守るつもりでいた。 忠司も睦子に気づかれないようにそっと起きていたので、お互いの領域に踏み込む事がなかった。 ある意味長年連れ添ってきた夫婦の優しさのようにも見えるが、真実は夫婦の間に横たわる冷たい川の流れに手の打ちようのない二人だった。 「やっとパパが会社に行ったわ。良かった」 と、睦子は忠司が単身赴任先の神戸支店から一年前に調布の家に戻ってきてから、ドアーにロックを掛けるたびにこう呟くようになっていた。 そして一人で、新聞を読みながらカフェを飲むことが忠司を送り出した後のブレークタイムだった。 「おはよう。お父さん出かけた?」 長男の孝太がめずらしく二階から階段を下りてきた。 「今、行ったところよ」 と、睦子はドアーを開けることもなく長男の問いかけに答えた。 「そう、今、行ったところか」 「お父さんに用事でもあったの」 「まあね」 大学四年の孝太はアメリカの大手証券会社に就職先も決まり、この夏休みは二ヶ月ほどアメリカに語学留学をすることになっていた。 「孝ちゃん、成田まで車で送ってあげる。スーツケース重くて大変だから」 「いや、いいよ。友達と行くから、大丈夫だよ。お母さん」 「そうなの。パート休もうと思ったのに残念だわ」 「それより、薬をもう少し持っていったほうがいいかな」 「あら、お母さんが用意したお薬全部入れなかったの?」 「入りきらなくなって、風邪薬や胃薬だけにしたんだ」 「普段からあまり孝ちゃんは、お薬を飲むほうじゃないけど全部持っていきなさい。アメリカで買うのも大変よ」 「そうするよ」 そう言いながら、孝太はコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。 そして、睦子が用意した朝食を食べ始めた。 「孝ちゃん、今日お父さんの発表の日なのよ」 「何の発表?」 「部長の、部長になれるかどうかの?」 睦子は、少しはにかんで答えた。 「へー、オヤジも大変だな!お母さんがオヤジの人事異動の事言うなんて、珍しいけど?オヤジ大変なの」 「今回の人事ね。お父さんたら何にも話さないのよ」 睦子は、ぎこちなく結婚指輪を右手の人差指で触れながら孝太に話を続けた。 「孝ちゃんは、もう就職決まったし、心配ないわよね」 「それって、何?お母さん」 「お父さんのことよ」 誰にも話さなかったことなのに、睦子はもう黙っていられなくなって湧き水のように孝太に話し始めた。 「心配ないなんて、どう言う事?お母さん」 「孝ちゃんは就職も決まったし、お父さんが今回の人事で部長になれなくてもそんなにたいした問題じゃないわよね?」 「そんなことないよ。僕だって、お父さんが部長になってくれたにこしたことないでしょ」 「今回は本当に厳しいのよ。神戸で部長になれなかったでしょう。それに今回は何も情報がなくて、お父さんこの数日イライラしてよく寝てないのよ」 「かなり深刻だね。でも今年がラストチャンスってことなんでしょ?」 「そうなのよ」 「そうか」 孝太は新聞を手元に近づけた。 ほんの数十秒の沈黙が、睦子と孝太に暗い影を落とした。 それはまるで難関校の合格発表で受験番号を人だかりの中から探すようなものだった。 睦子は今になって、あやふやだった想いがはっきりと答えが出た事に気づき、心から忠司に部長になってもらいたいと想った。 そして孝太に尋ねた。 「孝ちゃんは、お父さん今回の人事で部長になれると思う」 「なれるんじゃないの」 そう言いながら、孝太は睦子がもっと話の続きをしたがっているのを無視するかのようにテーブルに置いてあった日経新聞を読み始めた。 それは、あの瞬間に孝太は忠司の昇進は難しいと想ったからだった。 そして、すぐに金融関連の記事に孝太の関心がむけられていた。 睦子はそんな孝太の姿が忠司とあまりに似ているので、言葉につまりクルリと背をむけて洗面所に向かった。 そして、大きな溜息をついた。 鏡に映った顔は、年相当のシワとしみが少しめだったもの品のある顔立ちは睦子を上流夫人に見せた。 このところ体の調子が思わしくなかったこともあって、少しやつれた顔を気にしながらも、睦子は更年期の入り口に自分もとうとう来てしまったと、すべてを更年期のせいにしようとしていた。 そうすることで、イライラした気持ちを我慢することなく外に出してみたり、自分から攻撃的になったり、今までにない行動をしたりした。 このような気持ちの変化を更年期のヒステリー症状として受け入れるつもりだったが、逆にこの言い訳がましい行動が睦子を苦しめていた。 一年前までは、なんとも感じなかった孝太の態度が急に忠司と重なって見えて、嫌悪感を持つと堪らなくイライラして来るもの症状の現れだった。 そして、押さえきれなくなった気持ちを大きな声にかえて、ダイニングルームにいる孝太にむかって 「孝ちゃん、洗濯物あったら持ってきて」 と、叫んだ。 その声は荒々しく、ヒステリックなものだった。 「ないよ。お母さん」 と孝太は睦子の苛立ちを見透かすように、洗面所に行き睦子の背中を軽く叩いた。 孝太は睦子が忠司との夫婦関係がうまくいってないことは、だいぶ前から気が付いていたがあえて知らん顔することが睦子の為になると思い孝太はそうしてきた。 睦子も幾度かあった夫婦の修羅場について一切子供たちに話をすることはなかった。 そして睦子は子供たちの為と納得して、夫婦生活を続けてきたのだった。 そうして五年が過ぎ、十年が過ぎ、今日となった。 睦子もこの時はまだはっきりと確信していなかったが、この歳月が確実に心の闇に睦子の足を引きずりこもうとしているのだった。 それは逃れようもないジレンマとしてこれから先幾度となく睦子に襲って来る事になる「蛇の道」だ。 しかし、こんな時にも孝太の優しさが睦子に落ち着きをもたらしてくれた。 睦子は孝太の手のぬくもりを感じて刺刺しくなっている気持ちがシュンと治まり、心の乱れを直す事ができた。 「孝ちゃん、お洗濯ものないのね」 と振り向きながら孝太に向かって睦子は優しく微笑みながら答えた。 |