遥かなるオレゴンコースト2![]() 李紗がアメリカのオレゴン州立大学の四年生なったばかり秋のことだった。 大学を卒業したら、アメリカの企業で働きたいと希望していた李紗はインターンシップも上手くいかず、グリーンカードを取得する難しさを否応なしに叩きつけられ落ち込んでいた。 それでも、成績さえ何とか取れば一つぐらい採用してくれるアメリカ企業があるのではないかと学業に必死なっていた。 折しも9・11のテロ後のアメリカにおける景気の低迷と日本経済の悪化が留学生の就職を苦しめていた。 そして李紗は闇の中でじっと羽ばたく時を息こらして待っている小鳥のように耐え忍んでいた。 そんな暗黒の世界にいる李紗に幸運の女神が微笑んだのは「イーチン(易経)」だった。 女神は李紗に一人の老人を通して人生の素晴らしさを教えた。 老人はアレンという名前で大学の図書館で半日は過ごすことが日課になっているような年齢不詳のオレゴニアで、李紗は図書館で幾度か姿を見かけていたが、声をかけられたのはこの時がはじめてだった。 「君もイーチン(易経)に興味があるのかい?」 と、アレンは古びた本を手にしながら李紗に話しかけてきた。 「え、この本ですか?」 李紗は大学の図書館の棚からほんの少し前に取り出したばかりの黄色の分厚い本をアレンの顔の前に差し出して見せた。 アレンは微笑みながら軽く肯いた。そして次の瞬間、唐突な質問を李紗に浴びせかけた。 「君はジャパニーズかい?この本に書いてある漢字を教えて欲しい」 と言いながらアレンもまた、古びた本を李紗の顔の前に差し出した。 そして、アレンが指さした漢字を李紗は何も迷うことなく読んだ。 「八卦(はっけ)、八卦です」 「八卦と言うのか、教えてくれてありがとう」 李紗とアレンがこの言葉を交わしてから、アレンは続けざまにイーチン(易経)について語り始めた。 二人は立ち止り、そして歩きながらもアレンは止まることなく話しが続いた。 数分も経たず間に李紗とアレンは、大学の図書館を後にしていた。 蔦の絡まるチャペルを通り過ぎると、それは大きな樹齢百年は下らないポプラの木がドーンとあった。 その木陰に一列に並んでいるベンチの一つに腰を掛け、アレンは東陶と易経の歴史や人との係わり合いを李紗に喋り続けた。 そして儒教の教えから哲学まで話題が広がり、それは正にチャイニーズ・ヒストリーの授業のようで、アレンの絶妙な語りとイーチン(易経)の奥深さに李紗は時の経つのも忘れたかのように真剣に聞き入ってしまった。 もう頭の中はイーチン(易経)の事で一杯になり頭脳を司る回路がショートしそうになっていた。 すっかりイーチン(易経)の話にのめり込んでしまっている李紗に、アレンは「コイン占いの話」を始めた。 李紗はもう、行き交う学生たちの話し声も鳥の囀りも何も耳に入らず、アレンの声だけに反応して、引き込まれるように夢中で占いの話に耳を傾けた。 そして将来の不安がいっぱいで今にも溢れ出そうになっている李紗は、堪らなくなって 「私、コイン占いをやってみたいわ」 と真剣な顔でアレンに頼んだ。 アレンは李紗のこの言葉をずっと待ちわびていたような顔をして、白い歯をみせた。 「李紗、ここでコインを振ってみなさい」 そう言いながら、アレンが李紗に三枚のクオーター(25セント)を手渡した。 「何を占うのですか」 と少し弱々しく伏せ目がちになって、李紗はアレンに尋ねた。 アレンは李紗がネガティブになっているのを察して、優しくそして真摯に答えた。 「李紗が一番気になっている事だよ。素直に正直に心を開いて」 アレンの優しさを受けて、李紗はそっと瞳を閉じて小さな胸に手を合せて念じた。 アレンと李紗は、静かに時間の空間に二人同時に入って行った。 そして、その時が訪れたことを確認するかのように時空を越えてイーチン(易経)の世界へ足を踏み入れた。 「分かりました。それじゃ、やります」 と、言いながら李紗はコインが入った両手を合せてよく混ぜた。 そして、パアーと一機に両手を開いた。 コインはテーブルの上にコロコロと転がりながら落ち、三枚のコインは勢い良く回り力尽きた順に止まった。 三枚のコインをアレンが確認しながら 「表が二つに裏が一つ」 そう言って、アレンは紙に一本横線を書いた。 「その横線は何ですか」 と李紗はアレンに尋ねた。 「下卦を書き出すのだよ。こうして」 アレンは李紗にイーチンの本を開いて擲銭法(てきせんほう)のページを丁寧に指差しながら見せた。 李紗は軽く目を通したが、理解するには時間がかかりそうなので、アレンに 「ちょっと、まだ難しくて分からないけど、占いを続けたいわ」 と答えた。 「もちろんです。占いは続けます。さあ、集中してもう一度、良く振って投げなさい」 「はい」 と、答えながら李紗は心を集中して念じた。そして両手でコインを良く振って投げた。 「表が一つに裏が二つ」 アレンは最初に引いた横線の直ぐ下に短い線を横並びに二つ書いた。 李紗はなんとなくコインの表と裏が気になって三回目は、何度も両手でコインを混ぜ合せてから大きく両手を挙げて振って投げた。 コインはまるで生きているように勢い良くクルクルと回り始めた。 そして一つのコインが止まり、もう一つが止まり、最後のコインはクルクルと回っていたがそれも力尽きて止まった。 「表が一つに裏が二つ」 「二度目と同じだな」 アレンは確認しながら、その続きに書いた。 「あと三回ですね」 李紗は、この生まれて初めての占いに戸惑いながら、真剣にコインをまた投げた。 それは人間が誕生した日から脈々とDNAが受け継がれ、中国三千年の歴史に刻まれた時が、いま李紗の手によってイーチン(易経)として現れている。 この占いが単純なものであればあるほど、人間の神秘をかいまみる。 それは、コインを振る李紗にもアレンにも見えない不思議なDNAと前世の結びつきが繋ぐ「運気」だ。 そして、李紗もあの三国志の項羽、劉邦ようにイーチン(易経)に運命をかけてみた。 「あぁ、全部表が出たね」 アレンは短い線を横並びに書いてその横に丸を付けた。 李紗はもう、心に念じてコインを投げるより、どんな卦が出るのか?どんな卦を出したいのか?気になり出して自分で良い卦を出したいと念じて投げた。 「二枚が表、一枚が裏」 アレンが五回目の線として一本横線を書いた。 そして、六回目の最後、李紗は大きく呼吸をしてコインを投げた。 「表が二枚、裏が一枚さっきと同じだわ」 李紗がそう言うと、アレンは最後の線を書いた。 そして 「さあ、李紗、この六本の線を並び変えて六回目が一番始めになるように順番を並べ変える」 と言いながらアレンはなんとも不思議な六本の線を書きとめた。 その形は単純な線の繰り返しだが、李紗にはその如何にも中国三千年の歴史を感じさせるような形に心が奪われた。 アレンは、感極まった顔をしている李紗に六十四卦一覧表を見せてその同じ形を調べた。 二人の瞳がアレンの指が示したところの「346ページ」に注がれ、そのページを開きアレンが李紗に説明をはじめた。 李紗が出した卦は「益、(Incease)」という卦だった。 アレンは李紗に英語で書いてあることを話し始めた。 「益は、往くところあるに利あり。大川を渡るに利あり」 李紗が余りにトンチンカンの顔になっているので、この卦の説明を李紗が理解できるように話した。 「往くところあるに利ありとは、何事も時期を選んで動くなら、日に日に勢いは増し、そこには限りない前進が約束される。そして、大川を渡るに利ありとは、大川を渡るような冒険も積極的に進めてよい。と言う事だが、分かるかい?」 とアレンは李紗に確かめた。 「なんとか理解できそうです。難しいけど、私はこう解釈したのよ。アレン、聞いてくれる。これから良い事があるということ?」 と李紗は大体の感じで答えた。 「そうだよ。李紗、その通りだよ。もう少し付け加えるなら、富が増え、何をするにしても勢いがあり願い事が叶うことになる。また、この卦は自分を益する最大の道は、同時に他を間する道である事を教えるもので、一人占めのむさぼりや、あざとい欲望は益の勢いをただ損なうものであるとして戒める。他に自分に優る良さがあれば風のように従い、過ちがあれば雷鳴の如く翻然と改めなくてはならない。 それがお互いの関係をますます益する鉄則であると教える。と書いてあるよ」 アレンの占いに感激している李紗は、もう一度、胸に手を当てて瞳を閉じて軽く肯いた。 そしてアレンの説明してくれたことを心にしっかり締まった。 すると李紗の顔は、見る見るうちにピンク色の血行の良い顔色に変わり、瞳も輝きを取り戻した。 そして希望に満ち溢れた若者へと変わっていった。 「凄いです。こんな占い初めてです」 もう、この瞬間から李紗は運気をしっかり掴んでいた。 それは、二人にしか解からない微妙なものだった。 李紗は丁寧にお礼を言ってアレンと別れた。 時計が四時を回っていたので、李紗はバスでセーラム駅に出て買い物をして帰った。 アパートに戻ってから、この分厚いイーチン(易経)の本の「346ページ」を開いて、じっくりと読み返した。 アレンが説明してくれたように、李紗自身の将来が明るい未来に向かっていることがかいてあったので本当に嬉しく思った。 李紗はその夜、信じられないくらい優しく温かい母のぬくもりに包まれているような安堵感でやすらかな眠りについた。 そして李紗を朝まで久しぶりに熟睡できた。 もう何ヶ月も、こんな気持ちの良い眠りから遠ざかっていた李紗は、痛々しいほど悲惨な病んだ眠りの日々だった。 時として、刺々しい苦痛の眠りが不安でいっぱいの李紗に更に追い討ちをかけて苦しめていた。 眠りは良い眠りと悪い眠りがあり、李紗のような悪い眠りが続くと耐えがたい精神状態にもなりかねない恐ろしさがある。 苦痛の眠りの怖さに気づかないでいるうちに取り返しなつかない精神状態になってしまう。 李紗は、あと僅かなところまで追い詰められていたが、今日の眠りで大分回復することができた。 そしてこの安らかな眠りは次の日もそしてその次の日もやってきた。 熟睡することで、勉強に身が入り、肌も血行がよくなり身体のコンデションを崩すこともなくすべてが順調に運びだしたのだった。 エナジーが蓄えられていき、ひとつまたひとつと花が咲くように李紗の運命は転換期を迎えていった。 |