聖 一遍に思う
最も徹底した宗教人「一遍上人」 北川 淳一郎

道後の松ヶ枝町。
いまは看板を塗り替えて「上人町」(しょうにんまち)と云う。
その上人町の坂道を登りつめたところにお寺があることを知らぬ人がある。
ましてや、そのお寺が、宝巌寺(ほうごんじ)と云う時宗のお寺であること、時宗の開祖が一遍上人で、その一遍上人は証誠(しょうじょう)大師と云うお大師さんであり、いまから八百年の昔、延応元年にこの宝巌寺で生誕ましましたことなど、松山の文化人でさえ、いや、文化人なるが故に、知らない人がさらにある(それほどにまで今の世は宗教から離れているのだ。
この一遍上人、とてもすばらしいえらい人だった。
鎌倉時代、新仏教の開祖、法然、親鸞、道元、日蓮。
これ等の人々にくらべて、一遍は最も徹底した宗教人であり、また最も徹底した宗教を宣揚した人であった。
いま、時宗が浄土宗や真宗などにくらべて寺院も少なく、檀信徒の数も少ないのは、実は上人があまりにも徹底し過きた宗教人だった結果であるとさえ云い得よう。
上人は伊予の名族、河野氏の出で、祖父は通信、父は通広、後、帰仏して如仏坊と号して、宝厳寺の塔中(たっちゅう)に住した。
上人はそこで出生せられたのである。
上人は建治元年十二月十五日、御年三十六歳の時、紀州熊野本宮の証誠殿で、一百日の参籠。
その満願の暁、明星東に白む時、忽然として大悟徹底せられたのである。
その「十三歳の時、僧、善入と相具(あいぐ)して筑紫、太宰府の聖達(しょうたつ)上人の室入って」よりこのかた、十三年間の、ほんとうに血のにじむような刻苦辛惨の功がここに実ったのである。
この時、上人、勇躍歓喜、思わず「われ生きながら成仏せり」と、絶叫せられたと云う。
さもありなんと肯かれる。

「一遍聖絵」 歓喜光寺、東京国立博物館(所蔵) 中央公論社版

この成道を境として、上人、それから十五年間の念仏勧進の遊行(ゆぎょう)の生活が始まる。
九州、四国は勿論、中国、近畿、北陸、関東、東北。
「身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、身に一塵をたくはへず、絹帛の類を遠離し、金銀の具を手にとらず、酒肉五辛を絶ち」て、たた一筋に悩める衆生の救済々度のために、その身命を捧げ尽されたのであった。
世上人のことを一に、捨聖(すてひじり)または遊行(ゆぎょう)上人と云うのはこのためである。
道後宝巌寺の上人の御像。いま重要文化財。
鎌倉期の最も優れた彫刻で、御丈三尺七寸五分、寄木の立像。
川田順の詩句を引用すれば「糞掃衣(ふんぞうえ)裾の短く、くるぶしも脛(はぎ)もあらはに、草鞋(わらんじ)もはかぬ素足は、国々の道の長手の、土を踏み石を踏み来て、にじみたる血さへ見ゆがに、いたましく頬こけ落ちて、おとがひもしゃくれ光れる、肩は長く目見(まみ)の静けく、たぐひなき敬虔をもて、合せたる掌の先よりは、光りさえ放つ」かと思はれる。
この一遍上人、まことに「この道後の郷に生まれながらも、この御湯に浸(ひたる)るひまなく、西に行き東に行きて、念物(ねぶつ)もて勧化(かんげ)したまひ」遂に正応二年、五十一才、八月二十三日、兵庫真光寺の観音堂で、静かに「禅定(ぜんじょう)に入るが如く往生し給ふ」たのである。
その上人御示寂の六百七十年、今年今月二十三日から三日間、総本山藤沢遊行寺の貫主、遊行第七十一世他阿上人の来錫を得て御遠忌法要を巌修するのである。第一日は大施餓鬼、第二日が大法要、管長猊下の御親教、二十四日には戦没英霊の追悼会をとり行う。
因に、歴代の遊行上人中、この宝厳寺に来錫されたのは、記録によると寛文年間に第四十二世、南門上人以来、大正十年尊昭上人の遊化まで九人を数へる。
私はこん度の盛儀にまで事を運んで下さった現住持、檀家総代、一般檀信徒のなみなみならぬ御努力に対して深甚の感謝をささげるとともに、この法要が、単に一時のお祭騒ぎに終始すること無く、これが毎年の宝巌寺の行事となり、それを結縁(けちえん)として、一人でも多くの人が宗祖上人の高き尊き人格と精神に触れ、その深遠にして而も易行(いぎょう)なる宗教の門を叩かれんことを切望してやまない。
南無証誠大師一遍上人       (原文のまま)

昭和35年(1960)5月