聖 一遍に思う
★ 一遍の信条をテーマにした紀行的フィルムが主調の映画 「阿弥衣がゆく」  上田 雅一(うえだ まさかず)

映像作家。海外での小型映画コンテストに51回入賞。

主な作品は8ミリ映画「古城再現」「土の暦」アニメ「なみだ」など。

一遍聖絵を現代の視点で考察し、鎌倉時代の人々の生活を映像で構築する8ミリ「一遍絵伝」を製作。 一遍会会員。。


「阿弥衣(あみごろも)がゆく」は、劇映画ではない。
様式は多様であるし、内容は多岐にわたっていて、一概に○○映画なりと区分するのは難しい。
曰(いわ)く言いがたいのである。
どのような代物かを解説する便法として、作品のナレーションを引用、紹介することとした。
高野の峰に詣(もう)でた智真(のちの一遍)は、熊野本宮にひざまずきました。
画面は、朝もや漂う旧本宮跡。
見る側の人は、一遍の幻影をイメージするかもしれない。
現代と過去が重なりあう「話術」は全編にわたって多用されているが。
一遍さんの辿(たど)ったコースをなぞって訪れる私たちは、そのまま全国の名所旧跡をめぐり、楽しむことになる。
遊行会(ゆぎようかい)すなわち、一遍遺跡巡拝の旅は毎年春秋の二回、日本全国を回っている。
このグループに八年前から随従して、撮ったフィルムがこの映画となった。
したがって、紀行的フィルムが全体的主調となってる。
鉄輪(かんなわ)の永福寺では、一遍さんのお木像と湯浴みさせるお祭りがつづけられている。
踊り念仏の原型が、信州跡部(あとべ)の里に、今なお残されていました。
東宇和郡城川町川津南では鐘、太鼓で「なんまいだ」が踊られています。
重信町山の内の「楽頭(が<とう)念仏」は、後継者が絶え、この夏は鉦(かね)の音が聞けなかった。
このフィルムは、昭和六十年撮影のものである。
編中、ふんだんに民俗芸能を盛りこみ、映画的見せ場とした。
一遍さんは、地元よりも他郷でその知名度が高い。
その例証もいくつか。
信州で、初めて出会った人たちから、「一遍さんの誕生地から来られたんですか」と親しく話しかけられた。
七百年も昔、伊予の地名は一遍さんによって、全国各地にPRされていたのであった。
みちのくの地でも、奥州江刺の郷土史家が 「一遍聖絵」と現在の地形を照合して、河野通信の墳墓を確定されていた。
信州でも、踊り念仏発祥の地を探していた。
転じて、劇的画面はないが、
一世一代のカケに挑む闘志を内に秘めた一遍像が当麻(たいま)の無量光寺にまつられてある。

「一遍聖絵」 歓喜光寺、東京国立博物館(所蔵) 中央公論社版

時の執権北条時宗の本拠鎌倉入りを目前にした緊迫場面は、映像表現で迫力を出した。
追われて、暮れて、野宿した一行のもとに、評判を伝え聞いた人々が群れ集まり、競って念仏札を受けた。
過去に、現在の風景が重ねられる手法は、テレビでおなじみの表現であるが、旅衣 木の根 かやの根いずくにか 身の捨てられぬ処(ところ)あるべき歌人一遍の秀歌を巡拝の途次、数氏の方に詠んで頂き、綿中に織りこんだ。
この趣向は、見る人をして中世の昔に誘(いざ)なうのでは。
六道輪廻(りんね)の間には、訪もなう人もなかりけり。
ひとり生まれて独り死す生死の道こそ悲しけれ。
これこそが本命であろう。
生と死をつらぬいて生きた一遍の信条は、主要テーマであった。
今は亡き人の面影が、フィルムに映像として遺(のこ)されていた。
親しく、ともに旅した思い出が脳裏に浮かぶ。
帰らぬ人を映像に偲(しの)ぴ、ごめい福を祈るのみ。
本編のナレーションは原稿用紙で二十五枚、百十六節。
その解説は、プロの秋山士郎アナウンサーにやって頂いた。
メリハリの効いた名調子で、フィルムの格調が高められた。
古代からの芸術集団が、一遍時衆の精神的洗礼を経て、純化され「阿弥文化」となった。
念仏おどりが歌舞伎に発展する一方、能楽が生まれ、阿弥の影響は連歌・茶道・華道さらには作庭にまで及んでいる。
このコメントのシーンは、いま様の手法を凝らし、意外性を試みた。
そのことで映画に新味が加わつた。
が、その話の中身はあえてここでは述べない。
そのことが、初めて映画に目見(まみ)える方へのサービスではないだろうか。
「秘すれば花、秘せされば花なるべからず」 世阿弥 「風姿花伝」。
件(くだん)のマル秘フィルムは、公開の日(8日午後1時半・松山郵便貯金会館)まで銀行の貸金庫のなかで静かに眠つているのであった。(一遍会会員)
(平成元年12月 1989年)