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日本個人映画の歴史 |
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くプロフィール〉
上田氏は1916年(大正5年)生まれの知る人
ぞ知る8ミリ名人。作品数は200本以上、
国内での受賞は60本、国際コンテストでの受
賞は51回、全作品の95%は8ミリである。著
書には「愚眼遍路」「風の凡語」「宝塚蜻蛉工
場・川西航空はわが青春」「熱河の百八日」
「見たか町衆・松山三百年」、その他多数の映
画雑誌に執筆。写真集としては「ひとの顔ま
ちの頗」がある。昨年出版された「舞台大
変・名優井上正夫伝」は専門家の間でも高い
評価を受けている。現在、井上正夫芸術記念
館設立に向けて積極的に活動中。
戦前◆活動狂カメラマンを志す
−さっそくですが上田さんが映画と出会っ
た最初の思い出からお聞かせください。
上田 そうですね。懐かしいのは私が小学生
の頃、8才として1924年ですか、その頃は活
動のフイルムが一コマずつ紙袋に入って駄菓
子屋の店頭などで1銭で売られていました。
これをボール紙を切り抜いた型に填め込み、
今で言うスライド、幻灯ですね、その動かな
い絵を壁に写して遊んだものです。
− 光源は?
上田 もうその頃は電灯でして、これをラン
プハウスに入れレンズに集光して映写するわ
けです。可燃性フイルムの何とも良い匂いが
しましてね、大体は目玉の松ちゃんや、河部
五郎、阪妻など人気役者の動かない絵が映る
だけですが、近所の子供を集めて、仕舞た屋
(しもたや)の2階などで幻灯大会をやりま
した。我が家は菓子の製造販売を営んでおり
ましたので、店の金庫から小銭をそっとくす
ねてフイルムを買い集めるわけです。かなり
の量になっフイルムの断片を型紙の四隅に切 |
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り込みを入れて作ったアルバムのようなもの
に挟んで喜んでいたものです。家で作ってい
たタルトが1本25銭、うどんが一杯5銭の時
代です。
一物心ついて以来の活キチですね。
上田 そんなところです。そのうちに手回し
式で35ミリが掛けられるオモチヤのようなプ
ロジェクターも出回りそれも使ってみまし
た。あまり長いフイルムはかかりませんo
−多分その見かけから付いたのでしょうが、
当時ドッグ、ライオンといった名前の簡易プ
ロジェクターがあったようです。製品名は分
かりませんか?
上田 それは失念しました。そのうちにパテ
ーの9ミリ半の小さなプロジェクターが出回
り、沢田正二郎の「月形半平太」や「国定忠
治」が見られるようになりました。やがて自
分で撮る人が出てきました。伴野商会からカ
メラが売り出され、フイルムが1巻1円でし
た。昭和9年か10年には私も回したことがあ
ります。4本か5本とったのですが戦災で失
いました。
一岡本達一との出会いがその頃でしょう
か?
上田 昭和8、9年に岡本さんの撮影に同行 |
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したことがあります。松山の郊外で農家の娘
さんに演技を付けるわけです。岡本さんはア
メリカやブタペストのコンテストで受賞され
たロマンティストの作家です。この人は西条
市の市長でした。昭和7年、日本に最初にア
メリカ製の8ミリカメラを輸入したのが彼で
す。それから熱心な方では富田狸通さんがい
ます。雅号の通り、狸の置き物などのコレク
ターとしても良く知られた方です。
ー一一般の映画で当時上田さんが好きだった
のはどのようなものですか。
上田 伊藤大輔のカメラをやっていた唐沢弘
光に憧れていました。作品としては「忠治旅
日記」「大岡政談」などいろいろありますが、
「薩摩飛脚」(’38)のあの胸部にカメラをぶら
さげでの移動撮影に大変感心しました。これ
にはひとつエピソードがありまして、昭和11
年頃に唐沢氏に手紙を書いてカメラマン志望
の旨を伝えたのですが、彼からは直接返事が
なくその弟子だった山岡豊という松山出身の
方から、カメラマンは大変な重労働だから止
めたほうがいい、と返事が来ました。この山
岡豊は後に山本嘉次郎監督の「加藤隼戦闘隊」
(’44)を撮りまして、戦闘機が空中で交差する
スピーディーなシーンがなんとも迫力があり
ました。
一 上田さんも、移動大好き、というわけで
すね。そう言えば上田さんの 「古城再現」
(’68)でも、お城の堀から水鳥が飛び立つショ
ットの次にカメラが鳥の視点に変わって前方
斜め上に移動する場面があり驚きましたが、
あれは単純なズームではないでしょう、どう
やって報ったのですか?
上田 そんな場面がありましたか?
−ええ、ありました。
上田 本人は覚えていません(笑)、今度見
直しておきましょう。「古城再現」と言えば
またエピソードがあります。井上正夫の弟子
だった人で井上清という戦後、映画製作者に
なられた方がいます。実はその井上プロダク
ションに川谷庄平という往年の松之助映画の
撮影を手掛けた超ベテラン・カメラマンがお |
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りまして、昭和43年の松山城の修復の折りに
は井上プロの方が16ミリで記録を撮っていて
年をめされた川谷氏は三脚係として協力され
ていました。そんな関係で私のダブル8で撮
った「古城再現」を両氏に見せることになり
ました。これが8ミリか、と驚かれて過分に
誉めていただきました。川谷庄平は役者の川
谷柘三のお父さんです。また柘三の兄は高知
の熱心な小型映画作家で私の8ミリ仲間で
す。
話しを元に戻しますが、初めてパテーを回
してから、昭和30年に本格的に8ミリを手掛
けるまで20年の空自があるわけです。戦前は
六櫻杜の「さくらの国」誌に応募した写真が
特選になったのがきっかけで普通写真に夢中
になりました。京都の写真館で修業をしたり、
軍属の測量隊員となって満州にも行き撮影も
いたしました。
戦後◆新聞社勤めの後ウエダ映像社を設立
上田 戦後に写真集を出し、昭和23年に愛媛
新聞社に入ったのですが、喧嘩をしてすぐに
辞め、「セントラル劇場」と「銀映」という
映画館で雇われ一時期支配人もしました。
「銀映」の経営者が当時エヒメ・シネクラブ
の会長でした。エヒメ・シネクラブというの
は正式には「小型映画」の主催する小型映画
友の会の愛媛支部です。後に国際コンテスト
に出品するように勧めてくれたのはこの人で
す。私も昭和47年から53年まで会長をやらさ
れました。シネカメラはそれまで5万も10万
もしたのですが、ヤシカから1万円の大衆機
が昭和30年頃売り出されました。それを友人
とお金を出し合って買い求め、結構自分のも
のにしてしまいました。
一今お持ちのカメラはどんな種類のもので
すか?
上田 ヤシカ、キヤノン515、エルモ、フジカ、
ニコンが2種、16ミリでは日本に3台しかな
いと言われるコダックスペシネ、とボユーで
す。
一 当時フイルムの安定性はどうでしたか? |
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| けむり |
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上田 アンスコは良くありませんでした。サ
クラも初めは良くありません。コダックのダ
ブルフイルムは経年変化に強く、スーパー8
よりもずっと長持ちします。昭和32年から45
年まで愛媛新開に再入社して13年間勤めるこ
とになりました。勤務が昼夜2交替制だった
ので、夜間勤務の週の昼間は撮影に充て「土
の暦」(’65)、「古城再現」などはこうして少
しずつ撮りためて作ったものです。新聞社時
代にはアルバイトとして結婚式や落成式典な
どの撮影もやりましたし、その他商業デザイ
ンやレタリングも心得ていましたのでマッチ
箱のデザインから、ブルーフィルムのタイト
ルを書いたりもしました。
− ブルーフィルムですか? ばれると首が
飛びますね。
上田 ええ、海外に広く流された大がかりな
もので製作者たちは後で牢屋に座らされまし
た。タイトル1本が200円、2百から3百本
ほど書きました。実はフイルムも持っていた
のですが、子供に見つかっても具合が悪く危
険でもあるので、九州のある会社の社長さん
でシネカメラやフイルムのコレクターだった
方に譲りました。
− よければ名前を教えてください。
上田(オフレコ)
− ところで私にとって上田さんとの出会い
は大変奇遇でした。というのは、私も愛媛生
まれですが野村町という僻地に生まれまし
た。なにしろ小学校の修学旅行先が松山です
から同じ愛媛でも言わば裏愛媛です。どうい
うわけか極端に実験的な表現が好きでいつの |
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間にか実験映画の批評や研究に係わってきま
した。そして実験映画の系図調べの途中で、
実験性や前衛性とは何だろうと改めて考え直
し始めました。表現の様式は大抵は植物分布
と同じように親則的に環境決定されているの
で、様式だけを捉えて単純に実験的なものと
オーソドックスなものを分けることはできま
せん。始めから勉強しようと思ったときに、
松山でシネマと共に70年の上田さんに出会っ
たわけです。
上田 私の場合は実験とか前衛とか意識せず
創作意欲に駆られるままに作ってきました。
作品には二系統ありまして、1つはアニメで
もう1つはドキュメンタリーです。ドキュメ
ンタリーはどうしても現実の対象に縛られま
すし、海外へ出品するにしても字幕を付けね
ば分かりにくいなどの制限があります。一方
アニメーションはBGMだけで全く空想の赴
くままに表現できて言わば国際語として万人
に通じさせることができます。岡本達一さん
からは、上田君はどちらか一方に決めて作る
べきだと言わたことがありますが、私は敢え
て2本立てで作ってきました。「けむり」
(’69)と 「天」(’70)はシネカリグラフでカメ
ラを使わず直接フイルムに傷を付けて作った
もの、これはカナダ人の作品からヒントを受
けました。
− ノーマン・マクラレンですね。
上田 そうマクラレンです。「法則」(’69)はサ
ウンド・トラックのオプチカルの縞模様を自
分で作りたくなってペイントしたり引っ掻い
たりしたものです。「銀映」のスクリーンに
人がいないときを狙って映写した記憶があり
ますから、これは35ミリ作品です。実は「音」
にはなりませんでしたが………。テレシネ版
がありますのでゆっくり見てください。
− それは面白い、しばらくお借りします。
上田さんを見ていると、八幡浜のダダイスト
高橋新吉やドキュメンタリーの野田真吉、そ
れから諸俳人歌人など愛媛の表現者たちに共
通のものを感じます。温厚な土地柄なのに前
衛的なものを平気で受け入れてしまう不思議 |
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| 舞台大変・名優 井上正夫 伝 |
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な風土ですね。松山の伊丹万作も宇和島の伊
藤大輔もそうですし。
上田 そう、言われてみればそんな面は確か
にありましょう。
一愛媛新聞退職後はウエダ映像杜を経営な
さったわけですが、採算は立ちましたか?
上田 ええ、私のようなケースは例外かもしれ
ませんがどうにか立ちました。個人作品がコン
テストに入賞することで仕事のPRになりま
したしスポンサード映画もまた受賞しており
ます。その間、インドへ3回出かけて作品化し
たり、アメリカの学者と共同で「四国88札所」
の映画を作ったりもしましたどうも私は幾道
もかけて仕事をするのが性に合うようです。
今後◆まだまだ続く八面六臂
一上田さんの場合は映像作家というだけで
なくいろいろな方面で活躍されています。昨
年の暮れに出た「舞台大変・名優井上正夫伝」
は大変な力作で一挙に読ませてもらいまし
た。大変な資料に基づきながら部分的には推
理小説仕立てになっていますね。
上田 空想で書いているような部分も実は裏
を取っています。「舞台大変」を書いたのは
砥部町の井上正夫会から映画「井上正夫伝」
を依頼されたのがきっかけですが、井上正夫
の演技に賭ける異様な熱意といい、あの膨大
な量の絵手紙といい、デモーニッシュな力に |
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動かされていると思います。彼にとっては伊
予訛りが抜けなかったことの劣等感が創作の
秘密になっているようです。あの本は予想を
上回る好評で恐縮しています。
一今後のご予定は?
上田 まずは井上正夫芸術記念館構想の実現
です。ここは小型映画の資料も収集する予定
です。今後は「松山市史」「シネマと共に70
年」の執筆、この3年ばかり映画作りを休ん
でいましたのでそろそろ16ミリでアニメを作
るつもりです。
−それから「一遍会」で一遍上人を研究され、
文芸誌「二時会通信」にも参加されていますね。
上田 「一遍会」は高橋丈雄という劇作家の
呼びかけで、彼は昭和6年頃「改造」に“死
なす”というシナリオを書いた人です。勝新
太郎が今度作るらしい映画の原作がこれのは
ずです。「二時会通信」は去年亡くなった坂
本忠士さんから受け継いだもの、彼は「別れ
も愉し」(大映・45)と「妻の部屋」(東横映画/
東映’50)」を書いた脚本家です。考えてみる
と皆、映画を作ってゆくうちに自然と出会っ
た人々でありサークルです。
一そろそろ時間が迫ってきました。小型映
画、地方作家というのは映画史や文化史の中
でその貴重さの割りには研究が及んでいませ
ん。しかし必ず高い評価を受ける時代がくる
と思います。最後に上田さんが作品を作ると
きの座右の銘があれば教えてください。
上田 私の新聞社時代の仲間が「誤魔化しを
するな」と言っておりました。また、あるカ
メラ修理家が「妥協をするな」と言っており
ました。座右の銘というほどのものではあり
ませんが、私の頭の中にはいつもこの言葉が
あります。
一大変説得力のある言葉だと思います。今
日は良い時間お付き合い頂き貴重なお話を聞
かせて頂き有難うございました。今後もます
ますご活躍ください。
(「舞台大変・名優井上正夫伝」への問い合わせは
松山市の創風社出版/電話番号0899・53・3153まで。
「シネマと共に70年」も同社より95年春発刊の予定。) |
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