12月4日 産経新聞愛媛版
記録映画からアニメーシヨンまで手がけた作品は200点以上。今年度開かれた県民総合文化祭では、作品の質の高さと功績が認められ、県美術館で特別上映された。「若い人にも見てもらえることはありがたいこと。作品を残すということには、とくに執着していましたからね」。
大正5年、松山市出身。24歳で旧満州に測量技師補助としてわたり、仕事の傍ら市井の人々の様子を写真に収め、日本国内の雑誌にも投稿した。終戦後は市内で映画館や地元紙の写真製版部に勤務する傍ら、8_カメラで映像制作を独自に行うようになり、独立開業したのは47歳になってからだった。
よく知られる作品の1つは、52歳で完成させた「古城再現」(昭和43年)。当時、約1年がかりで復元された松山城小天守ほか5棟の城郭工事をまとめた記録映画だ。
炎天下で城の骨格が組み上がり、雪の舞う中で瓦がふかれ、桜が全容を現した城郭を演出する。四季の風情が、城作りに取り組む職人たちの姿とともに映されている。撮影のため、ほぼ毎日松山城に歩いて上ったといい「今元気なのも、あのころ鍛えたからかもしれませんね」と笑う。
命がけの作業をする職人たちには、撮影は遊びに見えたこともあった。ある時はけんか腰で「(撮影を)やめてくれ」と迫られた。あとで酒を持っていって機嫌をとるなどして、どうにかうち解けることができた。「これは撮らなければという一心でしたから。がむしゃらでした」。作品には、リズミカルにくぎを打ち付けていく職人の手さばき、ボール状にした壁土を人づたいに投げて渡す「リレー」の様子など新鮮な映像が、取材の成果として納められた。
ドキュメンタリーと並行して取り組んだのがアニメーション。不思議なメロディーの音楽をバックに、切り紙の唇と口紅で、女性の一生とその葛藤を表現した「くちびる」(昭和43年)。工場が垂れ流した廃液を食べた魚たちの行く末を切り絵で描いた「魚」(昭和54年)ーなど、これらは言葉の違う海外で評価された。「ドキュメントと違い、現実社会の制約のない表現手段」なのだという。技術的な難関もあったが、そこにはものづくりの喜びもあった。制作した当時、アニメーションとの両立は「邪道」と批判も受けた。しかし、として硬軟を織り交ぜて作風を広め、支持を得ていった。
硬軟どちらにしても、作品を残すことの苦労は絶えない。「残さなければ消えてしまうんですから」と静かに語る姿には、次の作品への期待が感じられた。
上田雅一のシネマなページ