第31回 『奇遇』
 去日、催した「紫電改生産工場被爆展」は予期以上の盛況裡に終えたが、多くの来場者に混じって、今や高齢の域に達した、その昔の工場関係者が多数訪れたことは予想外だった。
 その昔の資料や記録写真の類を展示したなかに次のような葉書があった。
 このころ私が「宝塚蜻蛉工場私記−川西はわが青春」なる拙書を出版したのに対しお送り下さった便りである。
 発信は昭和61年7月1日、伊予市下三谷 日野重敬とあり、
前文略
 「…私も川西家のめしを食った一人であります。甲南工場で飛行艇製作工師を命ぜられて海軍の飛行艇H8四発付を第一号から造りました。
 やっと軌道に乗った所をやられました無念骨ずいに徹して四星霜を経た今も忘れられません..。
 二十一世紀を前に平和の祈りを随筆されて頂けば高野山で眠る友も浮かばれます。お元気でいて下さいませ。「さよなら」
 奇遇とや言わん、取材で会場を訪うたTVブロデューサーこそが、今は亡き葉書の主の息子さんだったとは。
 このほか小展では戦時中、日土湾突入の瞬間と、昭和54年の紫電改引き揚げ目撃者の場合、両面をガラス越しに撫で、涙していた。
上田雅一のシネマなページ