第9回 『活弁の芸名』
その活躍時代は、まるで夏の夜空に弾け開く大輪の花火さながらの華やかさながら短命であった。
 話術の巧みで後世までその名声をとどめた徳川無声は別格として、世の多くの解説業者は失職とともに忘れ去られてしまった。
映画館内(舞台左側が弁士席)
 試みに、明治以来の新聞、プログラム(映画館で配布していたプログラム)などの、映画館広告を渉猟して、弁士の芸名を抽出してみた。
 古くは大正4年の松山館では澄紫郎、西村杏城ら。同年の新栄座に三枝道雄、ここに澄紫朗とあるはスカウトされたか。同8年有楽座には大阪朝日座から引っこ抜かれた坂本楠水、西和喜衆樂この人も岡山から当時の金で600円でスカウトされた。戦後玩具商を営み、港町町内放送はこの人。昭和5年になると中西衆、花井省三、水野袖夫らが加わる。同6年、大衆館(旧松山館)紅旭意、山本淳、沢井修この人はその後映画看板を業とする。
本名ではないがこの様に名が活字となって後代までも残されるのは、それだけ彼らが有名人であったと言う事であろう。
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